「憂鬱でなければ、仕事じゃない」を読んで

書くこと

「憂鬱でなければ仕事じゃない」を読んだ後のアウトプット。

どんな本か

幻冬舎代表取締役社長の見城徹氏と、サイバーエージェント代表取締役社長の藤田晋氏の共同著書。

働く上での心構え、人としてのあり方、その他さまざまなテーマに対し、二人が意見を述べていく。

努力

大変な努力をしても、そのことを知っているのは自分しかいない。結果を評価するのは、上司や取引先や世間である。つまり努力する側とそれを受け止める側は、何ら共通認識のない、まったくの別の主体なのだ。両者の間には、どうすることもできない、絶望的な溝がある。

憂鬱でなければ、仕事じゃない

見城徹さんが「努力」について語ったときの一節である。

おっしゃるとおり、評価する相手には努力は伝わらない。

評価する側には、努力している側のプロセスは関係ない。

「俺は頑張ったんだ」

言いたくなっちゃいますよね。

「ここまでやりました」

言いたくなっちゃいますよね。

でも相手には関係ない。関係ないのです。

自分の努力を誇張する人もいる。(実は自分も。。。注意!戒め!!)

良くないですねー(汗)

自分の努力を語っちゃいかんよ。ただの自己顕示になってしまう。

どんなことでも相手ありき。相手に伝わらなければ意味がない。

伝え方も大事。そして、結果を出すプロセスは相手には見えない。

つまり、結果に満足いただければ、最小限の努力でいいわけだ。(ここも大事ですね。最小限のインプットから最大限のアウトプット)

カラオケ

社員と飲む機会を作っているのは、単に仲良く飲んで盛り上がりたいからではありません。ゆっくり語る場を設け、どんな人材がいるのか把握することで、適正な人事配置をしたり、抜擢できる人材を見つけたりしたいからです。

憂鬱でなければ、仕事じゃない

見城徹さんは、カラオケを無駄な時間を言い切っていました。

しかし藤田晋さんは、引用した言葉のようにおっしゃっていました。

二人の性格の違いが出ていますね。

僕もカラオケは嫌いじゃありませんが、複数人でカラオケに行くのは正直時間の無駄だと思っています。

面と向かって話すことができないので、相手との距離を深めることができない。

音もうるさいので、真剣な話もできない。

しかし、藤田晋さんが言うように、どのような人が組織にいるのか把握するという理由であれば、無意味ではないなって思いました。

その場にいる人たちの中にいるってだけでも意味はあるのかな、と。特に新入社員とかの場合であれば。

人との会話は、真面目で真剣である必要はないので、「会社に誰がいるのかな〜、溶け込みたいな〜」っていうときには、カラオケはいいのかも。

時と場合によるってやつでしょうか。

仕事は憂鬱なもの

 身体を張って七転八倒しながら、リスクを引き受けて、憂鬱な日々を過ごす。そうやって初めて、後悔のない、清々しい気持ちになれる。

 これが仕事をする上で、そして、生きてゆく上で、何より大事なことなのだ。

憂鬱でなければ、仕事じゃない

見城徹さんの言葉。

シビレルね。

「どんな人も憂鬱に働け」ということでは決してない。

見城徹さんの哲学として、憂鬱を乗り越えて結果を出したからこそ生きている実感が湧く、ということではないだろうか。

働くことが憂鬱じゃない人もいると思いますよ。それはそれで全然イイと思います。

ただこの「憂鬱でなければ、仕事じゃない」って言葉を覚えておいて、逆境に立たされたときに思い出したいなって思います。